山口弥一郎の三陸集落調査

 山口弥一郎(1902〜2000)は、福島県会津美里町に生まれ、中学を出たのち小学校の教員となり、1928年に文検(文部省中等学校教員資格検定試験)地理科に合格して、磐城高等女学校教諭として奉職しながら東北の村々の調査を展開した。戦後、1960年に博士学位を取得し、1963年より亜細亜大学で教鞭をとっている。
 地理学者・竹内啓一(1932-2005)の「山口弥一郎の地理学」(『一橋論叢』第114巻3号、1995年9月)によれば、もっぱら東北地方をフィールドとした山口の膨大な研究群は、(1)炭鉱集落、(2) 三陸海岸津波防災、(3) 東北の凶作と開拓、(4) 東北の地方都市、(5) 村落の形態と構造、に大分される。山口地理学は、制度化されたアカデミーの地理学やそこからみた学問傾向の「図式的分類にはなじまない存在」であり、柳田国男(1875-1962)の薫陶をうけた民俗学的な方法、災害・凶作・開拓・移動といった人々の困難な生活体験への着目、東北地方の生活の改善に資する研究を目指した実践性などがそれを特徴づける。山口は、自身の研究は「結局は庶民の物心両面の安定・平和な生活を祈求することであったかとも思う」と述べており、また竹内は「文化と自然、社会と環境、土地と生活の相互作用を、人々の地理的イマジネーションに注目しながら考察する研究がなされていた」と総括する。
 山口による三陸集落の津波と移動の研究は、(a)防災の技術的な理論の導出と (b)集落定住の基礎理論の構築を目的としていた。竹内啓一は、(b)が地理学アカデミーの環境論的枠組みとの折り合いのために持ち出された可能性を示唆しているが、山口の著作を読むかぎり、後者の目的が消極的なものであったとは必ずしも思えない。

 以下では、山口弥一郎による三陸海岸津波災害と集落移動に関する研究群の背景を、山口自身の整理にもとづき簡潔にまとめることにしたい。

 山口の学位論文『津波常習地三陸海岸地域の集落移動〜津波災害防御対策実地状態の地理学的検討〜』(理学博士、東京文理科大学東京教育大学、1960年)の内容は、1964〜66年にかけて亜細亜大学の紀要に5回に分けて掲載されている。『山口弥一郎選集』第六巻(世界文庫、1972年)にもこの紀要論文が再録され、前書きが付されている。これによると、山口は三陸地域の津波災害と集落移動の研究に関連して数十件の発表論文・講演がある(→関連文献一覧)。
 同論文の序論によれば、山口の関連調査履歴は下記のとおりである。

  • 1935年12月〜1936年1月:田中舘秀三(1884-1951/地理学者/当時東北大学)の津波調査の助手として、集落移動の実態聞き取り調査を担当。ノートに集落移動の見取図をとり、移動した各戸に当たり移動の状態・事情を聞き取る。気仙沼から北上して下閉伊郡田老までを調査。
  • 1936年7〜8月:三陸南部(牡鹿半島南端から気仙沼)を調査。
  • 1936年12月〜37年1月:下北半島北端尻屋崎から南下して三沢、種市を経て、宇部、野田まで調査。
  • 1940年:東北研究のため居を岩手県黒沢尻町(現・北上市)に移す。
  • 1940年7〜8月:大船渡付近から田老、小本を調査。
  • 1942年7〜8月:普代、田野畑付近を調査。
  • 1943年:下閉伊郡重茂村を調査。
  • 1951年7〜8月:鵜住居村両石、唐丹村(小白浜村)本郷、綾里村(岩崎村)綾里を調査。
  • 1954年:大三沢町より南下して宇部村小袖、久喜まで調査。
  • 1955年8月:下北半島尻屋付近を調査。

 このように、1933年3月のいわゆる昭和三陸津波の2年9ヶ月後に調査をはじめており、これによる集落移動とその後の変容過程を追跡したことになる。1935年にはまた(三陸調査以前に)柳田国男と出会い、以後指導を受ける(柳田にとって山口は東北地方のインフォーマット・ネットワークの1人でもあったようだ)。1943年には一般読者向けの『津浪と村』(恒春閣書房)をまとめている。
 学位論文の完成は1959年(1960年学位授与)であるが、山口はさらに、1960年5月のチリ地震津波発生直後から3年間継続調査を行い、集落移動の被害防止効果等の調査検討を行った。ただしこの知見はまとまったかたちでは発表されていないようである。

 『山口弥一郎選集』第十二巻には、「地理・民俗採集ノート索引項目」と題された23ページにわたる目録があり、とくに説明がないが、おそらく山口自身のノート(195件)の一覧と思われる。この目録から三陸地域の津波災害と集落移動の研究に関連の深そうな名称のものを挙げてみると下記のようになる。

  • 4:三陸地方の津波による集落移動調査/1935年12月25日〜36年1月2日
  • 5:三陸地方の津波と集落(漁村の生活研究を含む)/1943年1月2日〜8日
  • 9:三陸沿岸津波と集落移動調査(北部−八木・大浜・野田・久慈)/1937年1月3日〜8日
  • 10:宮城県北部津波と集落移動/1936年7月31日〜8月2日
  • 15:津波と集落(田老・小本)/1940年8月17日〜18日
  • 70:三陸地方の津波による集落移動調査/1951年8月16日〜23日
  • 80:昭和二十九年三陸調査一/1954年
  • 81:昭和二十九年三陸調査二/1954年
  • 82:昭和二十九年三陸調査/1954年
  • 124:論文下稿−津波常習地の地理研究/1951年9月24日〜52年11月8日
  • 163:三陸海岸気仙沼−綾里・小本−田老・岩泉・安家・恐山・尻屋/1973年7月18日〜22日
  • 182:津波災害メモノート/1975年5月13日

 論文草稿・研究メモと思われる124番、182番の2件のほかは、すべて調査ノートとみられる。上記の調査履歴の一部はノートの目録にうかがえないが、山口は東北地方の集落地理・民俗に関して多岐にわたる調査研究を展開していたから、上記以外の他のノートにも津波と集落移動に関する調査の記録は含まれているのだろう。
 ノートの目録からは、各回の調査期間は2日から1週間程度と比較的短いことがわかる。ただし1954年の調査はノートが三冊にわたることからあるいは比較的長期にわたるものであったかもしれない。
 山口自身も言うように、調査は多年にわたり断続的に行われたため必ずしも全地域にわたって統一的データが得られたわけではない。また論文や著書をみても、聞取りによる記述には集落毎にかなりの疎密があることも事実である。たとえば、田老(宮古市)、船越(下閉伊郡山田町)、吉里吉里上閉伊郡大槌町)、両石(釜石市鵜住居町)、小白浜(釜石市唐丹町)、本郷(同左)、湊(大船渡市三陸町綾里)などはきわめて充実した知見が披瀝されているが、目立った記述のない集落も多い。こうした限界はあるものの、調査が多年に及び継続されたことは、災害後の計画的移動のみならず、むしろその後の原地復帰をはじめとする集落地理の変容の追跡と、その経済的・文化的背景に関する聞き取りの採集という意義深い成果を山口の研究にもたらしていると言えるだろう。

(文責:青井哲人