インデクス

map_sanriku4文献(Y1964b)他にならい三陸海岸を地形的特徴により4区分しています。各区▶をクリックすると各々の集落一覧ページへ飛びます。

第1区▶
尻屋崎〜馬淵川八戸市):砂浜海岸

尻屋猿々森田代小田野沢老部白糠尾鮫浜平沼浜天森砂森塩釜織笠六川目細谷淋代五川目四川目鹿中三川目ニ川目一川目深沢川口

第2区▶
馬淵川八戸市)〜閉伊川宮古市):隆起海岸(海蝕段丘)

市川橋向八戸白浜種差追越小船渡川尻戸類家宿戸八木中野有家小子内麦生白前侍浜桑畑閉伊口大尻二子小袖久喜広内新山前浜米田玉川下安家黒崎白井力持堀内大田名部普代切牛島越羅賀平井賀明戸小成茂師中野小本永沢小港樫内下摂内乙部田老

第3区▶
閉伊川宮古市)〜盛川(大船渡市):沈水海岸(典型的リアス式海岸

女遊戸鍬ヶ崎宮古白浜金浜高浜磯鶏赤前音部千鷄姉吉大沢山田細浦織笠小谷鳥大浦田ノ浜船越前須賀赤浜浪板吉里吉里安渡大槌小槌小枕惣川根浜室浜片岸桑浜箱崎両石佐須平田釜石嬉石大石荒川片岸小白浜本郷花露辺千歳根白本郷甫嶺浦浜崎浜小石浜砂子浜白浜野々浦岩崎石浜田浜佐野宿生形山口永浜清水蛸ノ浦長崎合足碁石泊里門ノ浦小河原梅神小細浦細浦舟河原

第4区▶
盛川(大船渡市)〜牡鹿半島:沈水海岸(細かなリアス式海岸

下平渡平永沢笹崎赤沢茶屋前矢ノ浦塩谷森崎三日市両替唯出六ヶ浦長洞大陽中沢浜根崎・集脇ノ沢沼田高田砂盛・古谷・双六要谷・福吉長部大沢只越小鯖宿浦舞根波路上杉ノ下大谷二十一浜蔵内田ノ浦石浜名足中山馬場伊里前清水細浦志津川波伝谷水戸辺折立相川小綱倉大谷川谷川鮫ノ浦小淵女川雄勝船渡船越名振

第1区 尻屋崎〜馬淵川:砂浜海岸

第1区 尻屋崎〜馬淵川八戸市):砂浜海岸

山口弥一郎による概況:

  • 尻屋より老部、白糠、泊付近にはいくらか海崖が海にせまり、海蝕段丘上に集落もみられるが、全般的に九十九里浜式砂浜海岸で、川目に納屋より発達した集落(川目集落)がみられる。 湾形(山口弥一郎調査対象集落中):第八型(砂浜)84%、第三型(外洋凸凹少)16%(Y1964b)

掲載集落名(現行政区域)

第2区 馬淵川〜閉伊川:隆起海岸(海蝕段丘)

第2区 馬淵川八戸市)〜閉伊川宮古市):隆起海岸(海蝕段丘)

山口弥一郎による概況:

  • 北上山地の北部を占め、宮古付近にかけて広大な海蝕大地がみられる。主に直線海岸で、いくつか奥行の浅い湾入があるが、その多くは小規模なもので、海岸には数戸の納屋を置く程度のものが多い。 湾形(山口調査対象集落中):第三型(外洋凸凹少)51%、第二型(外洋U字)49% (Y1964b)
  • 海岸段丘が発達しているため、集落は概して海岸線から離れ、また高い位置にあり、津波の被害は比較的少ない。ただし被害があって移動を要する場合、適地を得がたく、移動距離は長くなりがちである。海岸の漁業中心の集落と、段丘上の農業開拓集落との分離を誘いやすい。(Y1965b)

掲載集落名(現行政区域)

第3区 閉伊川〜盛川:沈水海岸(リアス式海岸)

第3区 閉伊川宮古市)〜盛川(大船渡市):沈水海岸(典型的リアス式海岸

山口弥一郎による概況:

  • 三陸海岸の最も標識的、かつ大規模なリアス式海岸である。段丘の発達が最も悪く、絶壁のせまる湾頭の低地に集落が発達し、津波の災害度の大な点からも標識的地域である。 湾形(山口調査対象集落中):第五型(湾内V字)38%、第二型(外洋U字)20%、第六型(湾内凸凹少)16%、第四型(湾内V字)15%、第一型(外洋V字)4%、第三型(外洋凸凹少)3% (Y1964b)
  • 漁業を主とする集落が多く、海岸線に対して集落は概して近く、低い。被害は最も甚大。湾頭地形が狭く、移動適地を得がたいが、昭和津波では政策的に計画的な集団移動を行った集落が多く、移動距離は最も大きい。漁業との関係で無理を生じる傾向にある。(Y1965b)

掲載集落名(現行政区域)

第4区 盛川〜牡鹿半島:沈水海岸(リアス式海岸)

第4区 盛川(大船渡市)〜牡鹿半島:沈水海岸(細かなリアス式海岸

山口弥一郎による概況:

  • 大小の湾入が入雑り、最も複雑な海岸である。 湾形(山口調査対象集落中):第五型(湾内U字)39%、第六型(湾内凸凹少)21%、第二型(外洋U字)8%、第四型(湾内V字)7%、第一型(外洋V字)6% (Y1964b)
  • 湾入が細かく、小集落が多い。海岸からの距離も小さく、低い。被害甚大。移動適地は求めがたく、もともと小集落であるが分散移動が多くなる。ただし第4区の南半は集団移動が比較的多い。(Y1965b)

掲載集落名(現行政区域)

当サイトの主旨

東日本大震災は広範・多岐にわたる災害ですが、当サイトはそのうち三陸地域の津波災害に焦点を絞っています。その復興においては歴史観が問われると私たちは考えます。それはこの地域の津波被害が反復的で自然的なものであると同時に、人文・社会学的にも工学的にも歴史規定的であるという、その両面をいかに捉えるかが問われるという意味においてです。当サイトは、三陸地域の集落が経験してきた過去の津波災害とそこからの復興・再生の軌跡を理解するためのひとつの手がかりとして、先人の残した記録を集落別に集成するものです。

作成の指針:
1) 1896年、1933年、1960年の津波災害を対象とし、行政区域単位でなく集落単位での地理的変化にかかわる記録に重点を置く。
2) 初期的作業では、上記の3度の災害に関して網羅的な記録となっている文献を選択し、基礎的データとしての網羅性を担保する。
3) 資料的制約の範囲内で、都市から小村落までを広く対象とする。(20110429初回公開は40集落)
*個別集落のページに関する情報出典等の詳細は「当サイトの読み方」をご覧ください。

当サイトが活用した資料のなかで、福島県出身の地理学者・山口弥一郎(1902-2000)が200以上の集落について20年以上にわたり彼自身の足で採集した記録の数々はとりわけ重要な意味を持っています(他資料も山口からの引用と思われるものが少なくありません)。山口の研究により、集落空間の移動・復帰をはじめとする変化には、政府や地方団体の政策はむろんのこと、それぞれの集落の地形、災害の規模、集落の形成過程と社会構造、産業構成、民俗文化、流入者の振る舞い、他災害(戦争・火災等)といった多面的な要因が複合的に働いてきたことが明らかになっています。また、時間軸のなかで推移する状況そのものがつねに新しい力学的条件を生じ、次なる変化を連鎖的に引き起こすというダイナミズムも読み取ることができます。

復興・再生のあり方を描くにあたっては、まず何をもって「復興」「再生」とするのかが問われ、そこに向けて時間のマネジメントが求められるでしょう。そのとき、過去の事実と先人の観察は大いなる意味を持つことになると考えます。

当サイトで扱われているのは、1960年チリ地震津波までです。復興像を描く条件としては、以後の約半世紀間における三陸地域の産業・社会の変化が決定的に重要な意味を持つことは疑いえません。この期間に日本があらゆる地域にわたって経験した変化は、ある意味でそれ以前のあらゆる時期よりもドラスティックなものであったとも言われます。その意味で2011年の災害の特異性を考えなければならないことはむろんですが、それもまた歴史的に測るほかありません。

なお、当サイト作成作業にあたり、都市計画遺産研究会「三陸海岸都市の都市計画/復興計画史アーカイブ」の精力的な作業に大いに刺激を受けるとともに、都市計画に携わる学徒としての真摯な姿勢と見識に啓発されたことを申し添えます。

(作成=明治大学理工学部建築学科 建築史・建築論研究室/文責:青井哲人

当サイトの読み方

集落ページの説明と出典及び、図版の出典を以下に示します。

集落ページ  "(C1934)"などの文献略号はこちらを参照ください。

集落名
現在の行政区域(これまでの行政区域の変遷)
区域:「インデクス」を参照
湾形:(C1934)の「湾形の分類」をもとに山口弥一郎が行った分類「湾形の分類と津波の波高、被害数、集落の移動様式一覧」(Y1965a)を使用


明治三陸津波(1896)
波高:(Y1965a)
死者:(Y1965a)
流失倒壊戸数:(Y1965a)
再生形態:(Y1965a)

文献からの転載(→「文献一覧」

昭和三陸津波(1933)
波高:(Y1965a)
死者:(Y1965a)
流失倒壊戸数:(Y1964b)
家屋流失倒壊区域(坪):(Y1964b)
浸水家屋:(Y1965a)
再生形態:(Y1965a)
移動戸数:(Y1964b)
達成面積(坪):(Y1964b)

文献からの転載(→「文献一覧」

チリ地震津波(1960)

文献からの転載(→「文献一覧」

1896年、1933年の津波に関する基礎データは(C1934)に記載がある項目は、山口のデータとともに「*」を付けて併置した。

図版の出典
当サイトでは「文献一覧」以外に下記のサイトを利用しました。

図版の凡例
1933津波後の復興計画(C1934)
C1934_legend

1961集落現状図(K1961)
K1961_legend
1.高地集落
2.その他の集落
3.明治29年津波浸水線
4.昭和8年津波浸水線
5.チリ津波浸水線

(文責:石榑督和)