姉吉(岩手県宮古市重茂)

姉吉
現・岩手県宮古市重茂(1896-重茂村/1955-宮古市
区域:第3区(沈水海岸)
地形:甲類第一(外洋V字)


明治三陸津波(1896)
波高:16.2m*   *16.20m(C1934)
死者:496人(重茂村)
流失倒壊戸数:103戸(同上)
再生形態:

「全村が29、8年と再度の津浪で殆ど流出したやうな、被害甚大な村にあっては、災害は悲惨を極めただけに、村人が協力して移動復興を遂げたのが多い。」(Y1943/p.137)

「陸よりは車馬の通ずる道路も得難い程の、全く外洋に面した小漁村に過ぎないが、29年にも8年にも殆のど全滅の災害に遭っている。」(Y1943/p.147)

「大津波記念碑と書いて、次に「高き住居は兒孫の和樂、想へば惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな、明治29年にも昭和8年にも、津内は此処まで来て、部落は全滅し、生存者僅かに2人、後に4人のみ、幾歳経るとも要心あれ」と懇切に諭し、而もこの碑の位置は、両度の津波の最高点より高く、毎日原聚落位置と、移動地と往復する途の岩頭に建ててある。」(Y1943/p.193)
「姉吉はもとより12戸位の漁村に過ぎなかったらしいが、明治29年には全戸流失と共に、生存者はただ2人で、全部死去或は行方不明と言う惨害にあった。であるから復興にも村人よりは人を得られず、何れも隣村等より若い人々が相続者に見立てられて継いだので、津波の経験者がなく、原地の濱に仮屋を建てて住む者が多かったらしい。ただ数戸は1000m程谷奥の、標高約60mの山峡に移った跡があるが、1戸は後に北海道へ移り、他の家も大正13年まで止まっていたが遂に元屋敷に戻って、昭和8年にはこの移動地に1戸も残っていなかった。この詳細な事情は生存者が全くないので聞取るにも困難であるが、「姉吉は全部移って全部戻って、又流された」等言われる如く、1000mの坂道を濱に出て、漁獲物を持上げ、時に夜道を、女、子供等通う事は到底堪えられず、1戸が元屋敷に居着くか、戻るようになれば、津波の経験を持たぬ移入者のみにより再興された部落は、経済的関係のみにひきづられて原地に復興するものと察しられる。」(Y1943/p.197)

明治29年前には12戸あった。これが全戸流失、生存者ただ2人と言う惨害にあった漁村である。29ねんの災害直後は、数人の人々は高地に復興しようと、屋敷地を設け、家も建てたが、多くは親籍等より幼少な者が、単に家系の名義のみついで復興しており、生長する頃には、災害に未経験者であり、何時か津波の被害も物語と化して、むしろ漁業を生業とする経済的関係のみを主とする為に、漸次元屋敷に復興していった。それで折角谷を上った人々も、毎日の仕事に不自由であり、時折は津波も来そうにないので、1,2戸と下り、木村某氏の如きは最後まで高地に止まっていたが、大正13年に遂に濱に下ってしまった。1戸は北海道へ行き、他の12戸は昭和8年までに完全に原地に復興したのである。それに房州から季節的に来漁する納屋が8戸あり、当夜はここに40人程の漁夫が来ていたらしく、村の漁夫の宿泊者も若干あった。これ等の人々は全部死亡、或は行方不明となったのである。昭和8年後は再度の災害をうけた事であり、県当局の移動方針もあって、全戸海岸より約1000mの距離にある谷奥の、6,70mの距離に移動した。これには恩賜の救済金も当てられたし、組合から住宅資金を4戸で2000円程借りる等、屋敷地は木村某氏所有のものが多かったので、土地交換をしたり、若干は無償で割当てる等して、漸次家を建て、昭和18年1月には既に8戸が建ち、他の1戸が建てば、他はもと房州の人で東京へ去り、又山田町へ移った家もあるから、これで完成するのであると言う。」(Y1943/p.200-201)


昭和三陸津波(1933)
波高:10.2m*   *10.20m(C1934)
死者:13人*   *10人(C1934)
流失倒壊戸数:*   *13戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪): *   *2.06ha(C1934)
浸水家屋:15戸
再生形態:
移動戸数:
達成面積(坪):

「全村が29、8年と再度の津浪で殆ど流出したやうな、被害甚大な村にあっては、災害は悲惨を極めただけに、村人が協力して移動復興を遂げたのが多い。」(Y1943/p.137)

「陸よりは車馬の通ずる道路も得難い程の、全く外洋に面した小漁村に過ぎないが、29年にも8年にも殆のど全滅の災害に遭っている。」(Y1943/p.147)

「大津波記念碑と書いて、次に「高き住居は兒孫の和樂、想へば惨禍の大津波、此処より下に家を建てるな、明治29年にも昭和8年にも、津内は此処まで来て、部落は全滅し、生存者僅かに2人、後に4人のみ、幾歳経るとも要心あれ」と懇切に諭し、而もこの碑の位置は、両度の津波の最高点より高く、毎日原聚落位置と、移動地と往復する途の岩頭に建ててある。」(Y1943/p.193)

「姉吉はもとより12戸位の漁村に過ぎなかったらしいが、明治29年には全戸流失と共に、生存者はただ2人で、全部死去或は行方不明と言う惨害にあった。であるから復興にも村人よりは人を得られず、何れも隣村等より若い人々が相続者に見立てられて継いだので、津波の経験者がなく、原地の濱に仮屋を建てて住む者が多かったらしい。ただ数戸は1000m程谷奥の、標高約60mの山峡に移った跡があるが、1戸は後に北海道へ移り、他の家も大正13年まで止まっていたが遂に元屋敷に戻って、昭和8年にはこの移動地に1戸も残っていなかった。この詳細な事情は生存者が全くないので聞取るにも困難であるが、「姉吉は全部移って全部戻って、又流された」等言われる如く、1000mの坂道を濱に出て、漁獲物を持上げ、時に夜道を、女、子供等通う事は到底堪えられず、1戸が元屋敷に居着くか、戻るようになれば、津波の経験を持たぬ移入者のみにより再興された部落は、経済的関係のみにひきづられて原地に復興するものと察しられる。」(Y1943/p.197)

明治29年前には12戸あった。これが全戸流失、生存者ただ2人と言う惨害にあった漁村である。29ねんの災害直後は、数人の人々は高地に復興しようと、屋敷地を設け、家も建てたが、多くは親籍等より幼少な者が、単に家系の名義のみついで復興しており、生長する頃には、災害に未経験者であり、何時か津波の被害も物語と化して、むしろ漁業を生業とする経済的関係のみを主とする為に、漸次元屋敷に復興していった。それで折角谷を上った人々も、毎日の仕事に不自由であり、時折は津波も来そうにないので、1,2戸と下り、木村某氏の如きは最後まで高地に止まっていたが、大正13年に遂に濱に下ってしまった。1戸は北海道へ行き、他の12戸は昭和8年までに完全に原地に復興したのである。それに房州から季節的に来漁する納屋が8戸あり、当夜はここに40人程の漁夫が来ていたらしく、村の漁夫の宿泊者も若干あった。これ等の人々は全部死亡、或は行方不明となったのである。昭和8年後は再度の災害をうけた事であり、県当局の移動方針もあって、全戸海岸より約1000mの距離にある谷奥の、6,70mの距離に移動した。これには恩賜の救済金も当てられたし、組合から住宅資金を4戸で2000円程借りる等、屋敷地は木村某氏所有のものが多かったので、土地交換をしたり、若干は無償で割当てる等して、漸次家を建て、昭和18年1月には既に8戸が建ち、他の1戸が建てば、他はもと房州の人で東京へ去り、又山田町へ移った家もあるから、これで完成するのであると言う。」(Y1943/p.200-201)


チリ地震津波(1960)



iwate_omoemura_aneyoshi_1948k
fig.姉吉:1948航空写真(国土地理院

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fig.姉吉:1977航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)

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fig.姉吉:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.姉吉:2011津波後の航空写真(日本地理学会 津波被災マップ)