山田(岩手県下閉伊郡山田町)

山田
現・岩手県下閉伊郡山田町(1896-山田町)
区域:第3区(沈水海岸)
湾形:乙類第六(湾内凸凹少)


明治三陸津波(1896)
波高:6.57m*   *6.57m(C1934)
死者:840人
流失倒壊戸数:388戸
再生形態:


昭和三陸津波(1933)
波高:4.75m*   *4.75m(C1934)
死者:7人*   *8人(C1934)
流失倒壊戸数:*   *406戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):*   *6.65ha(C1934)
浸水家屋:568戸*   *180戸(C1934)
再生形態:一部分散移動
移動戸数:
達成面積(坪):

「山田町に於ける昭和8年津浪高4.75m、流失倒壞戸數406戸、北部既設護岸ある部分は其の構造、高さ共に不完全なるに拘らず被害僅少にして、多くは浸水の程度に止り、流失、倒壞せるは殆ど南部砂濱海岸に面し護岸なき部分である、山田港は津浪波高の高からざる山田灣内に位置するを以て、既設護岸は之を補強嵩上し、護岸なき部分は海面埋立、滿潮面上2mの護岸を築造する事に依りて、津浪の勢力を減殺し得るものとす。家屋の流失、倒壞區域は近々開通せんとする山田驛に接する區域なるを以て、街路復舊と同時に、街路の整理を行ひ、新市街地を構成せしめんとす。その街路復舊路線數15、幅員6及至15m、總延長2183mに達す。」(C1934)

「第六海岸線凸凹少き場合津浪は第五に比して一層低く4〜5米に逹することあり、又破浪することなく單に水の増減を繰り返すに過ぎざる場合多し。」(C1934)

昭和8年津浪に際し、堅固なる護岸の設けありし爲津浪の勢力を弱め、被害を輕減し得たる例多し。遠淺の海面を埋立て、堅固なる護岸を築きし爲に被害を尠くしたる例あり。之等の場合護岸附近に於ては相當の被害を被るを覺悟せざる可からざるも、その後方地に於ては浪津の勢力は大いに減殺せらるるものの如し」(C1934)

「山田町などは、トーチカのようなコンクリート塀をもって包んで、町並みは少しも移動させなかった。」(Y1964a/p.70)

「1933年266戸の流失の惨害を受けたが、移動しては全く地方都市としての機能を失うからと、護岸工事、防波堤を完全にして、非移動のまま再興した。」(Y1964a/p.72)

「釜石、山田、大槌、大船渡のような沿岸地方における交通、経済、教育など社会生活の中枢をなす地方的中心市街地を安全地帯に移転するのは不可能であることから、「都市的聚落地はその原敷地に復興するを本則とし、その敷地内に就き土地の利用を工夫し、海辺に直接するを絶対的要件とする運送業、倉庫、その他の建築物を除き、住宅は後方安全なる高地に敷地を造成し移転せしむ。(三陸津波に因る被害都町村の復興計画報告書[C1934])」という方針としている。」(C2010/p.159)

「当時[昭和津浪後]はコンクリート構造物は高価であり、田老のほか、吉浜本郷、釜石、山田などに防潮堤 が築造されたにとどまった。なお、チリ津波はこの防潮壁の切れ目から浸水し、防潮壁のためになかなか水が引かなかった。」(C2010/p.159)

「防浪堤については、昭和8年津波後大規模なものは田老、吉浜、小規模なものは大槌、越喜来に建設したが、特に田老町の堤防は全町を巻く模範的な堤防である。また、山田町には海岸線に平行して防潮壁が建設されている。」(C2010/p.168)


チリ地震津波(1960)



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fig.山田:1933津波後の航空写真(C1934)

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fig.山田:1933津波後の復興計画(C1934)

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fig.山田:1948航空写真(国土地理院

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fig.山田:1977航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)

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fig.山田:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ[速報])

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fig.山田:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.山田:2011津波後の航空写真(Google