甫嶺(岩手県大船渡市三陸町越喜来)

甫嶺
現・岩手県大船渡市三陸町越喜来(1889-越喜来村/1956-三陸村/1967-三陸町/2001-大船渡市)
区域:第3区
湾形 乙類第四(湾内V字)


明治三陸津波(1896)
波高 13.25m*   *13.25m(C1934)
死者 430人(越喜来村)
流失倒壊戸数 118戸(同上)
再生形態:分散移動

「越喜来村下甫嶺は越喜来湾頭の村であるが、山麓に住み若干の耕地をもつ農業者と、濱近く生活する純漁業者とあり、津波来襲の限界線は略々その中間を走って、切実に津波の災害を味わってゐる者とゐない者との間に、復興に対する熱意に相当差がある如く感ぜられる。濱近い漁民には相當な被害があったらしいが、山麓の現在の国民学校付近に移った人々は、濱を離れては到底生活が困難であるとて、2、3年にして全部元屋敷に戻って終った。」(Y1943/p.35)

「29年の災害後一部が高地に移動しながら漸時不便に堪え兼ねて元屋敷に復帰した。」 (Y1943/p.157)


「数戸山麓に移動したが、2年ほどで皆原地に復帰した。」 (Y1966/p.158)

「[原地復帰の要因には]毎日浜に通い、漁具、漁獲物を運ぶのに不便に堪えられないことの他、海面、船着場を眺め得る位置に移動していなかったことなども含まれている。」(Y1966/p.158)

「浜と主要交通路から離れ、単に目前の災害避難のためのみの、山麓高地への分散移動をしたので、浜に出るにも適当な道路がなく、この主要交通路よりの退避は不利なことが多いので、原地復帰を促す大きな要因となる。」 (Y1966/p.158)


昭和三陸津波(1933)

波高:8.63m*   *8.63m(C1934)
死者:6人*   *6人(C1934)
流失倒壊戸数:23戸*   *21戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):1808坪*   *0.59ha(C1934)
浸水家屋:33戸 *   *2戸(C1934)
再生形態:分散移動
移動戸数:21戸
達成面積(坪):1252坪

昭和8年には21戸流失[越喜来村]し、愈々集團移動しようと計畫したが、越喜来村では浦濱のみが許可になり、崎濱も下甫嶺も成功せず、2、3戸は北の山等に上ったが、7、8戸は既に假屋と言ふには少々永久的な家屋を建てて住みついている。」(Y1943/p.36)

「濱近い1漁夫の語る所によれば、移転するに適当な土地がきたの畑にあったが、地主が負債の為担保に入れてあって払下が困難であったのだと言う。50坪とか100坪でもほしいと叫んだ人が罹災者側にあったが、地主が高価な事を言って譲ろうとしなかった。最初浦濱は坪5圓、崎濱は4圓、下甫嶺は3圓位と村会が定めたが成立せずに終わった。被害者は殆ど純漁夫で土地を所有してゐる者とてなく、どこまでも言い張る程の村の有力者もいない。流されて居所もないから、夫々元の屋敷に仮屋を建てる。地主も左程暮らしが楽と言うのではなく、幾何かの借財をもっていて、それを土地を譲る時罹災者になるべく負わせようとするので、相談が容易にまとまらぬのであると言う。」(Y1943/p.36)

「集團移動が失敗して一部は現地に居住、他は夫々分散して高地へ移っている。」(Y1943/p.140)

「8年に再び災害を繰り返したのであった。これには漁民でありながら、海面域は船着き場を眺め得ない聚落の位置、毎日濱に通って漁獲物、漁具等を運搬する不便に堪えられぬ事、及び漁獲物の仲買人等で、漁獲物の水上げ場に居住しなければ、他に先んじられて生活に困難である等の種々の事情が含まれている。」(Y1943/p.157)


チリ地震津波(1960)



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fig.甫嶺:1947航空写真(国土地理院

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fig.甫嶺:1977航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)

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fig.甫嶺:震災津波前の航空写真(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.甫嶺:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ[速報])

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fig.甫嶺:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ)


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fig.甫嶺:2011津波後の航空写真(日本地理学会 津波被災マップ)