湊(岩手県大船渡市三陸町綾里)


現・岩手県大船渡市三陸町綾里(1889-綾里村/1956-三陸村/1967-三陸町/2001-大船渡市)
区域:第3区(沈水海岸)
湾形:甲類第二(外洋U字)


明治三陸津波(1896)
波高:12.57m*   *12.57m(C1934)
死者:1347人(綾里村)
流失倒壊戸数:186戸(同上)
再生形態:

「湊は本村としては最も人家稠密で灣頭に奥深く、戸数80餘戸が一市街をなし、學校や役場、巡査駐在所等もあつたが、第一回の波で全滅し、死者實に398名に達した。」(Y1943/p.31)

「綾里は明治29年昭和8年津波の激甚地である。明治29年には1347人[流失186戸]の死者を出しながら個人的に数戸高地移動をしたのみで原地復興に終わっている。 」(K1961/p.71)


昭和三陸津波(1933)
波高:9m*   *9.00m(C1934)
死者:62人
流失倒壊戸数:117戸
家屋流失倒壊区域(坪):14016坪*   *4.66ha(C1934)
浸水家屋:117戸
再生形態:集団移動
移動戸数:146戸
達成面積(坪): 7287坪

「湊灣は直接外洋に開口せる細長きU字型にして、本部落は其の灣奥に位し波高及衝撃力共に大なり。昭和8年津浪波高9m、湊、岩崎兩部落に於ける家屋の流失 倒壞戸數136戸、死傷111人を出す、斯の如き地形に於ける部落は高地移轉をなすを理想とし、本部落に於ては舊部落地の西●出地の斜面に沿ひ明治29年津浪浸水線以上の高さに、縣道盛綾里線を付け替え、此の兩側に敷地を造成す。其の收容戸數146戸、面積7,287坪、中央高所に村役場を置き、造成敷 地と海岸との連絡道路數條を設け、海岸には防浪護岸を設け、舊部落地は之を共同作業場とし、 綾里川沿一帶の低地は防浪緩衝地帶たらしむ。」 (C1934)

「第二灣形U字をなせる場合津浪は前者に比較して稍輕きも高さ15mに達することあり。」(C1934)

「最初縣當局の方針としては、津浪を避け得る高畫なれば随意に分散して移轉してもよいと考へていたらしいが、灣頭に市街地を造って永く一緒に生活してきたのであるから、分散しては不自由でもあるし、やがて原地に戻る事も心配されるとて、最初の60戸分の敷地造成計畫を變更して7000坪、146戸分を建設した。」(Y1943/p.34)

「集團移動は多くは官、公の指導があり、産業組合或は特に住宅組合等を組織して、多大の補助があった上に、資金の統制も一般に円滑に運び、道路設備等もよく手がとどいて、時には縣道を移動地に切更える等の事まで果たして、村の統制、機構を崩さずに再興出来たものが多い。綾里村湊、唐丹村本郷の如きは主要交通路を完全に新敷地に移している。」(Y1943/p.138)

「総戸数288戸中184戸までは漁業者で、比較的容易に移動地の建設が出来た事も察しられる。」(Y1943/p.154)

昭和8年には再び湊で9.0m白浜では18.0mの大津波に襲われ、低地の危険地区に復興した部落は249戸流失倒壊、死者178人の被害を出している。明治29年と比較すれば波高が低い割合に家屋被害が多いのは、人口の増加、生産諸施設の増大に伴って危険地区の居住者が増大したことを意味し、また家屋被害数に対して死亡者が少ないのは、地震によって津波を予知して避難したためである。これらは明治29年津波昭和8年津波被害とを対比する場合、三陸地震津波被害型の一般傾向として注目されよう。 」(K1961/p.71)

昭和8年の大被害の後に高地移動計画を実施して、湊では南側の谷壁に7287坪の宅地を造成して136戸を収容し、地盤高は明治29年津波線上より1m高く、また田ノ浜では集団移動戸数18戸に対して898坪を造成して地盤高は明治29年津波線上6.7mの高さにした。」(K1961/p.71)

「117戸中115戸流失、西側山麓を切崩し、1戸平均50坪、146戸分の敷地を造成し、県道盛-綾里線をつけ替えて中央を通し、水道を設備し、海岸との連絡道路を数条整備して集団移動した。しかしなお被害現地のバラック建ての小屋に多数住みついて動かないのがある。」(Y1964a/p.70)

「若干商業的な機能をもっているから、甚だしく位置を移動させることが困難で、側面の山地を切崩して、一部は四集落位置に土盛りして非移動、垂直移動のような形にみえ、主要交通路を造成、敷地の上に移し、新たに地割りをして146戸が市街地のような集団移動集落をつくった。」(Y1964a/p.73)

「綾里村湊、鵜住居村両石の如く、集団移動を見事に遂げたものでも、分家や新移入者などには、被害地域に、既に本建築をして動きそうでないものも見受けられる。」(Y1966/p.158-159)

「道路の整備は勿論、水道、下水から浴場、共同作業場に至までの、福利厚生や、生業に対する共同的な施設まで備えている。」(Y1966/p.168)

「漁村もそうであるが、商業的集落にとっては、この条件は特に重要である。集団移動の場合は、敷地造成事業と付帯して、交通路の変更を合理的に行ったのが多く、不利な条件を解決しているものも既に多い。綾里村湊等はその標式的なもので、移動敷地に古くからの街村形態を崩さないよう、山麓を細長く切り崩して盛土し、その中央に主要交通路を移して、もとのような街村形の集落をつくっている。さらに旧街道、海岸低地、港湾と幾本もの連絡路線で結び、避難道路をも兼ねさせている。」(Y1966/p.161-162)


チリ地震津波(1960)

チリ地震津波の波高は3.5mで、最大波は4時10分頃であり、3回大きな波が来て、最大退潮線は中ノ島付近の海底が露出した。浸水区域は地盤高約3mの線まで達したが、浸水速度が急ぎ足程度であったため被害はほとんどなかった。防災上の問題点はチリ地震津波程度では現在の防潮計画で問題ないと思われるが、谷底の危険地区には昭和8年当時の応急住宅さえ残っており、また、その後の占居者の増加によって被災危険度が高まっていることを見れば、明治29年昭和8年津波被害を考え、次期の津波対策が実施されねばならない。 」(K1961/p.72)



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fig.湊:1933津波後の航空写真(C1934)

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fig.湊:1933津波後の復興計画(C1934)

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fig.湊:1947航空写真(国土地理院

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fig.湊:1933津波の集落移動位置と遡上範囲(Y1943)

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fig.湊:1961集落移動計画図(K1961)

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fig.湊:1977航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)

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fig.湊:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ[速報])

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fig.湊:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.湊:2011津波後の航空写真(Google