谷川(宮城県石巻市)

谷川
現・宮城県石巻市(1889-大原村/1955-牡鹿町/2005-石巻市
区域:第4区(沈水海岸)
湾形:乙類第五(湾内U字)


明治三陸津波(1896)
波高:2.5m*   *2.5m(C1934)
死者:1人
流失倒壊戸数:17戸
再生形態:

「住宅に被害はなく、納屋8棟、厩屋6棟が流失、或は浸水してゐる。翌30年にも津波が来襲、むしろこの濱では後者の方が大であったとも言う。2年も続いて来襲したので、安全地帯に移動する方がよいと、石森氏は山麓耕地に畑を買求めて屋敷を移した。」(Y1943/p.6)

「29年の災害に他の一戸も移ろうとして、先づ板倉を二つ引上げたが、31年になると災害の憂も薄らぎ、移らうとした熱意も失せて母屋はそのまゝになり、8年の津波に流失し、7人家族中4人が死亡してゐる。」(Y1943/p.6-7)


昭和三陸津波(1933)
波高:3.95m*   *3.95m(C1934)
死者:21人*   *26人(C1934)
流失倒壊戸数:*   *86戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪): *   *2.07ha(C1934)
浸水家屋:79戸*   *7戸(C1934)
再生形態 :集団移動
移動戸数 :
達成面積(坪):

「集団移轉戸數19戸、部落後方の傾斜地に岡を隔て2箇所に敷地を選定す。その造成敷地面積3925坪計畫高明治29年津波面上5.4m、昭和8年津波上3.8mとす。」(C1934)

「[谷川浜]宮城縣に於て前掲縣令第二條第二項の規定に依り建築禁止區域を指定したる町村」(C1934)

「津浪の高さは内灣とは全く異なり、5mから5m20cmにも達し、被害も遥かに大で、谷川では47戸中29戸流失、26人の死者を出し、鮫ノ浦にても、26戸中11戸流失、36人の死者を生じた。」(Y1943/p.5)

「谷川は70戸足らずの聚落であるが、20戸程の純農の人々は山麓の中井道に住み、30戸程の漁業者を中心とする聚落は側ノ入と言う海岸に住んでゐる。農村の方が古いらしく、旧村の位置はさらに海岸より離れた山麓にあったとも伝えている。然し一戸当たり耕地は三段乃至五段に過ぎず、家の寶として貴重がられ、災害後の移動に際しても耕地を潰して住宅とする等は考へられず、不便を忍べば山奥にいくらでもまとまった移動地が得られると、被害を知らぬ小地主は漁村と対立している観がある。」(Y1943/p.6)

昭和8年には被害がなく、濱に離れて不便の如く感ぜられたこの家も、8年の被害者が夫々移動を完了してみると、現在は石森氏宅が最も濱近く、便利になつてゐる。」(Y1943/p.6)

「現在は被害の全戸が移動を完了し、屋敷跡は畑となったもの8、荒地のままのもの7、他は〆粕製造、大謀網納屋等に当てられ、荒地、畑地の屋敷跡には未だ敷石が残り、移動跡の生々しさを思はせる。殊に石森善左衛門氏宅前の小山にある氏神としての、明神、金比羅、秋葉の三神を祭つた小祠は流失を免れ、原地に其の儘残り、舊暦毎月10日の祭には、大御酒を上げに約500mも通つて来る。屋敷稲荷をもつてゐた家は移動の際一緒に移したが、古い屋敷跡を毎日ながめて濱に通つたり、祭日毎に舊屋敷の氏神を親しく訪ねる事が、災害を忘れ果てた後々まで続き、さなくも濱に出る不便に堪え難くなつてゐる際に、やがて聚落の原地復帰、再興或は新聚落の発生を促す一因にならないかとも心配される。」(Y1943/p.7)


チリ地震津波(1960)



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fig.谷川:1933津波後の航空写真(C1934)

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fig.谷川:1933津波後の復興計画(C1934)

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fig.谷川:1947航空写真(国土地理院

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fig.谷川:1975航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)

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fig.谷川:震災津波前の航空写真(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.谷川:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ[速報])

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fig.谷川:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ)

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fig.谷川:2011津波後の航空写真(Google