大田名部(岩手県下閉伊郡普代村)
大田名部
現・岩手県下閉伊郡普代村(1889-普代村)
区域:第2区(隆起海岸)
湾形:甲類第二(外洋U字)
明治三陸津波(1896)
波高:18.12m* *18.12m(C1934)
死者:1010人(普代村)
流失倒壊戸数:258戸(同上)
再生形態:
「大田名部は普代川の荒れた川口を避けて、その南に崖を隔てて純漁村を造っている。29年にも殆んど全戸流失したが、移動せずその儘原地へ黙々と再建して終ったと言ふ。」(Y1943/)
昭和三陸津波(1933)
波高:13m* *13m(C1934)
死者:21人* *21人(C1934)
流失倒壊戸数:84戸* *82戸(C1934)
家屋流失倒壊区域(坪):9230坪* *0.33ha(普代+大田名部)(C1934)
浸水家屋:47戸* *2戸(C1934)
再生形態:集団移動
移動戸数:54戸
達成面積(坪):3179坪
「津浪浸水高明治29年18.12m、昭和8年13m、造成敷地高11m以上にして、一部浸水位下に在るもその前面に防浪堤の計畫あり。造成敷地は相當の勾配を有する細長き谷地に之を選定し、その面積3559坪、中央に幅員5.5mの縱貫道路を設く、收容戸數54戸。」(C1934)
「再び山麓の3戸が流失を免れたのみで災害をうけ、現在は普代へ通ずる道路に沿うて、山麓に52、3戸が集團移動を遂げている。」(Y1943/p.112)
「挙村集団移動を提唱して、同時に名子制度を崩壊に導いた例がある。下閉伊郡太田名部は全村1地頭により統制された標式的名子制度下の漁村であった。1896年の津波では非移動で、名子制度をよく確保したが、1933年再び流失壊滅し、今度は挙村移動を主張し、背後の谷に集団移動地を造成し、54〜80戸を移動させた。これが契機となって1936年7月、55名の名子が入会権確認訴訟を提起し、ここの漁村の名子制度は崩壊した。」(Y1965b/p.251)
チリ地震津波(1960)
fig.大田名部:1933津波後の航空写真(C1934)
fig.大田名部:1933津波後の復興計画(C1934)
fig.大田名部:1948航空写真(国土地理院)
fig.大田名部:1977航空写真(国土情報ウェブマッピングシステム)
fig.大田名部:2011津波遡上範囲(日本地理学会 津波被災マップ[速報])